Future
これからのYOSAKOIを「お祭り」をベースに
梼原町よさこいチーム「梼原」
チームリーダー 立道 斉

よさこい祭りへの参加は、踊り子の募集に始まり、地方車や衣装、楽曲や振り付けの製作、移動バスの手配やサポートスタッフの継続的な確保など、毎回数百万円の資金と多大な労力、またそれらを上回るよさこいへの熱意が必要です。特に、梼原町のよさこいチーム「梼原」のように山間部の町を代表するような「よさこいチーム」は、それぞれの地域の「思い」を背景に設立され、高知市のお祭りに参加しています。
「梼原」は、2003年の50回大会から参加していますが、当時すでに数少ない地域のよさこいチームの一つでした。その後、資金がある大きなチームと手作りの小さなネットワークチームの格差が広がり、いわゆる「よさこいチームの二極化」が進んだと思います。資金力の問題だけではないと思いますが、県外チーム数の増加に伴いよさこい祭りへの参加チーム数が増えているのに対し、一つのチームの踊子数とよさこい祭りに参加する県内チーム数は減少しています。また賞取レースの過熱化によって、よさこい祭りのイベント化も進みました。このような傾向を受けて、近年は、「イベントからお祭りに戻そう」という機運も高まっていると思います。
私たちは県境の梼原町から参加させていただいていますが、高知地内の各競演場を運営する方々は、競演場の設営や片付け、終わった後のゴミ拾いや地域住民からのクレーム処理などお祭りの前後を含めて大変です。本来お祭りは、「地域を治めて発展させるためのもの」ですから、「よさこい祭り」もお祭りをベースにしたイベントであってほしいと思っています。が、最後はお祭りとイベントとの絶妙なバランスではないでしょうか。
17年前に踊っていた小学生が、結婚して町に帰ってきて、今は「梼原」のスタッフとして町の振興を支えてくれています。町の高校生が「梼原」でのよさこい体験を大学受験のエッセイに書いて進路の一助にしています。たしかに「梼原」は梼原町の地域振興のツールです。私の子どもはまだ小さいのですが、将来は「梼原」の踊子やスタッフとして活躍してほしいと願っています。そして、いつか誰かに、「梼原町のよさこいチームを始めた人は誰なの」と聞いて、こっそりその誰かから私の名前を教えてもらって微笑んで頷くようなシーンがあればいいな、とそんな未来を想像しています。
よさこい祭りは、基本、
「幸せ」が一番美しい景色
YOSAKOI総合プロデューサー
杉本 貴美

よさこい祭りの進化は、TV放送や生バンドの出現、サンバやロックのリズムを経て平成に入り、リーダーとしてのチームを作るための前夜祭のステージ踊りとグランプリ受賞へと続いてゆきます。その流れを最初に掴んだのがセントラルグループでした。それまでの「動き」を楽しむ踊りから、観客に4分半の「物語」を見せる「表現」へと新たに進化したのです。とにかく勢いが滅茶苦茶あって、観客が感動して泣いていた光景を覚えています。
そのセントラルの遺伝子が北海道の「よさこいソーラン」へと発展していくのですが、北海道の6月は涼しいものだから衣装の5枚重ね着ができるわけです。そこから衣装を利用して変身するチームが一気に増えました。それまでの高知のチームは、7月20日くらいから練習していたのですが、4分半にストーリーを詰め込んで「見せるぞ」というチームに変わって、早くから練習を始めだしました。
セントラルグループの時代が終わる21世紀に入ると、よさこい祭りの大賞が数年で交代する時代に入りました。そして、「ほにや」とか「十人十色」の時代を迎え、いわゆる「和風調」のトップチームが固定化されていきます。これらのトップチームは、大賞と金賞から落ちることはありません。
今の「和風調」のトップチームの時代がいつまで続くのかは、誰にもわかりませんが、私は、そろそろ「賞」とりレースの時代は終わってもいいのでは、と思っています。素晴らしいチームとは、シンプルな衣装でもいいので、きちっと着付けをして、清潔感があり、とても幸せそうに踊っているチームだと思います。これからのよさこい祭りは、もっと「幸せ度合」に焦点を当てた方がいいのではないでしょうか。
今はコロナ禍で大変ですが、このコロナ禍の状況だからこそ、よさこい祭りが飛躍的に変わる可能性があると思っています。