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Legend

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Legend 國友須賀を語る

スガジャズダンススタジオ 國友裕一郎

インタビュアー 前田正也

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前田:今日は、お母さまの國友須賀先生のお話をお伺いさせていただきます。

          最初に、國友さんが忘れられないリーダーとしての須賀先生の在りし日の姿を教えてく 

          ださい。

國友:母(須賀)が亡くなったのは東日本大震災(3.11)の年の6月1日ですが、実は、前年            の2010年の11月に、10人のスタッフを引き連れて千葉県旭市に引っ越していました。

          自然循環農法で有名な大松秀雄先生に弟子入りして、昼間は農作業を手伝いながら健康

          な体をつくって、夜はジャズダンススタジオを経営しながら新しい舞台芸術活動をする

          というわけです。ところが年が明けて、須賀は突然、国立がんセンターの医師から「余

          命4ヶ月」という宣告を受けます。結局、旭市の事業と劇団は私たちが引き受け、須賀

          は最後の余命を1990年頃から大好きだったハワイマウイ島で過ごすことになり、2011

          年3月9日にハワイへ旅立ちました。その二日後、3.11が起こり、旭市も津波で大きな被

          害が出ました。

前田:3.11の状況を知った須賀先生からは、どんな連絡がありましたか。

國友:須賀からは、3.11の直後、「癌の私でもできることはある。私より日本が困っているか

          ら、今すぐ返る」という電話がありました。福島の原発事故直後から、原発事故と癌と

          の因果関係についても報道されていたので、母には「マウイ島に留まるよう」にと説得

          したんですが、須賀はすぐに旭市に帰ってきました。

          そして、これまで築いてきたYOSAKOIのネットワークを活用して北海道から九州まで、

          数十人の仲間に連絡して、お米や海苔、ジャガイモなど大量の物資を寄付していただき

          ました。女性陣は送られてきた食材を使って炊き出しを、男性陣は力仕事を、そんなボ

          ランティアを毎日、約1か月半続けたことを覚えています。

前田:その間、須賀先生のお体は大丈夫でしたか。

國友:私たちの脳裏には、ガリガリにやせた須賀の姿が記憶として残っています。でも本人   

          は、病床の中でも「炊き出しのメニューを考えにゃいかん」とか、「今の任務が終わっ

          たらマウイ島に帰るき、あんたら飛行機のチケットキャンセルしてないやろうね」と

          か、そんなことを言い続けていました。

          終末期、須賀は、旭市の病院に入院していましたが、モルヒネを打たずにベッドで私た

          ちと約1か月間交流ができる状況でいてくれました。何か不思議な力が働いていたので

          はないかと思えるほどです。お医者さんも「このようなケースは、今まで経験したこと

          がない」と言っていました。入院した初日に、お医者さんから「お母さんは相当痛いは

          ずです。モルヒネ注射を打って痛みを緩和させた方がいい」とのアドバイスをいただき

          ましたが、須賀は断りました。

          6月1日、最後の日の朝、看護師さんから私に電話があって知ったことですが、須賀は

          前日、「モルヒネを打って」と言ったそうです。そして、1日の晩、ずっと私たちの目

          を見続けながら亡くなりました。須賀は、私たちに精神面で頼ったりすることがなかっ

          たので、本当に凄いと思っています。

          須賀の人生と生きざまは、強烈なメッセージでした。私は、そのメッセージを受け取っ

          たのか、逃れられないのか分かりませんが、そのメッセージとともに今も生きていま

          す。

 

前田: 須賀先生は、昭和から令和にかけてYOSAKOIが疾風怒濤の時代、ある役割をもって生き

          たように感じますが。

國友: 須賀は、私が小学校2年生の7歳、弟が4歳の時に離婚し、親権を失いました。愛して

          いる子供たちを一気に奪われたタイミングで、偶然YOSAKOIに出会い、「俺も生きる理

          由が見つかりそうだ」と言って感動する不良少年や少女のためにYOSAKOIを続けようと

          決意します。すると、まもなくセントラルグループから振付の依頼が来て、どんどん活

          躍の場が整えられ、一気に世間から注目され始めます。ところが、須賀が精神面の大切

          さを訴え始め、時を同じくしてセントラルさんの振り付けから離れたら、「須賀さんは

          宗教だ」とか、「もう関わらんほうがえいよ」とか言われて孤立する。

          すると、「YOSAKOIを世界にもっていこう」と一気に方向転換して県外に出始める。

          そんな人生の展開でした。

          時代に流れとともに須賀の人生も流れていったという印象が僕にはあります。

前田:須賀先生は、普段、どんなことをお話しされていたんですか

國友:須賀は、目の前の人が困っているので、ただ「やらなきゃいかん」と思っていただけで

          した。

         「地球の裏側で困っている人とか、世界中で辛い思いをしている人たちにいいエネルギ

          ーが届いたらいいと思うの。人の思いのエネルギーはそこまで届くと信じているから。            それを一緒にやってくれる人がおるんやったら一緒にやろう。イヤやったらやらんでえ

          い。すぐいなくなって。お互いストレスになるし、邪魔になるだけでしょ。

          みんなは自由だけど、騙されたと思ってついてきて。みんなで進んだらエネルギーが強

          くなるでしょ。」

          これが須賀の口癖でした。よく、ご飯を食べながら笑顔で話していました。聞く方も日

          常会話の中にこんな言葉が出てくるものだから結構胸に刺さりましたね。(笑)

前田:須賀先生は、どのような使命観をもたれていましたか

國友:1993年から95年のころだったと思います。高知県馬路村でダンスの指導に当たっていた

          ある夜、スピリチュアルな体験をした須賀は、自分の使命を「この世の無気力、無感

          動、無責任を正す」ことだと悟ったようです。「生きるということは、何かを成し遂げ

          ようと突き動かされて作品を作り、それで何かを達成できると信じ抜いて生きること

          だ」とも言っていました。

          でも、どれだけ理想を掲げてやっていても、満たされず、虚しさを抱えたままでした。            須賀は、そういう気持ちを打ち明けられる人が少なくて、私の恩師の佐藤春雄さんだけ

          には、そんな気持ちを漏らしていました。

前田:須賀先生は、58年間、どんな人生を歩んだ人でしたか

國友:虚しさを抱えながらも、何度も何度もチャレンジし続けたのが須賀だったと思います。

   「YOSAKOIで人の心を開いて、教育していく。YOSAKOI踊ったら助け合うことも学ぶ

          し、体も健康になるし、いろんないい影響がある。だから私はYOSAKOIをやっている」

          というシンプルな思いと同時に、「私がやりたいのは、このレベルの踊りじゃないの

          よ。お祭りでワァーワァーいって楽しいだけの踊りじゃないの」という願いもありまし

          た。

          また、「YOSAKOIじゃなくてもいいから明るいエネルギーを作らにゃいかん。でも、

           YOSAKOIの舞台が一番人の心を開いて、感動があって、希望を届けられるツールなの

          よ」という思いと同時に、それだけが素晴らしいとは、思っていませんでした。

         「どういうやり方でもいいから、困っている人が喜んだり、覚醒したりしていく手段を

          みんなで協力してやろう。みんなが大変な時に助け合える下地を作っておこう」という

          気持ちが強くありました。

          小さい時から、理想を掲げ、周りを恐れず、突き進んでいった人生だと思います。

 

前田:お母さんであり、師匠である須賀先生のジャズダンススタジオを、どのような気持ちで

          引き継いでおられますか。また、お母さんとの絆はどのように結ばれましたか。

國友:私は、須賀の「思い」をスガジャズダンススタジオと一緒に引き継ぎました。ただ、私

          には、須賀のようなカリスマ性と才能はないと思っているので、チームワーク力や総合

          力で須賀がやろうと思っていたことをこの10年間続けています。

          長年会ったこともなかった私と母との絆が結ばれたのは、高校卒業の春、ハワイで母と

          再会したことがきっかけでした。母からの誘いで、毎年3月にオアフ島で開催されるホノ

          ルルフェスティバルに母のYOSAKOIチームの踊子として参加することになり、母が経営

          する高知市のジャズダンススタジオに顔を出しました。そこで待っていたのは母ではな

          く、魅力的なレオタード姿のインストラクターでした。母に頼まれたという彼女に、す

          っかりYOSAKOIの振り付けを仕込まれ、出発することになりました。

          10数年ぶりの母との再会は刺激的でした。ホノルルで待っていた母は、満面の笑みで、

         「裕一郎」といって両手を大きく広げてハグしてきて、顔中にキスして、「あんた、

          スゴイ頑張っちゅういうたね。私は、すごい嬉しい」とか言うわけです。その瞬間に、

          これまでの母へのわだかまりや誤解は一気に解けてなくなりました。

          でも、大変なのはそこからです。フェスティバルでは、ワイキキのメインストリートの

          カラカウア・アベニューでセントラルグループの「龍の舞」を踊るというのです。

          パレードの距離は3kmです。私は、高校時代、ソフトテニスでインターハイ出場経験も

          あるので、体力には自信がありましたが、1km踊ったところで疲れて、「もう、やめよ

          う」と思い始めていました。するは、母が先頭から踵を返してきて、「あんたらあ、こ

          こからが本番でぇ。ここには世界中から人が集まっちゅうろう。私らぁ日本から愛を分

          かち合う為にここに来ちゅうがでえ。みんな楽しんで、魂から踊りなさい」と言って、

          また先頭に戻るんです。

          最後、3km踊り終わったとき、私は感動して、嗚咽を漏らしながら泣いていました。

          踊り子がゾンビになったような25年前の光景ですが、今でも鮮明に覚えています。

          素人でも世界中の人々に感動を与えることができる「お祭り」と「YOSAKOI」の力を

          初めて知り、そのYOSAKOIチームリーダーの母が「須賀」として師匠になった瞬間でも

          ありました。

          晩年は、同志として意見がぶつかったこともありましたが、それは同じ理想を掲げてい

          た同志としての証拠でもあったと思っています。

前田:最後は、親子の情が戻り、母から師へと、そして同志へと、須賀先生のDNAが引き継が

          れていく様子がよくわかりました。

          今日は、貴重なお話をありがとうございました。

國友:私もこのような切り口で母を語ったのは初めてだったので、今日は懐かしく、ある意味

          もう一度背筋が伸びたように感じます。こちらこそ、このようなご縁をいただき、あり

          がとうございました。

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